感性を磨く (top)
1 美の判断基準
2 造形の必然性
3 バリエーションを生む技術
4 日本のアイデンティティーの確立
5 伝統と新感覚
6 デザインに密着するキャッチフレーズ
7 日本デザイン史 


1 美の判断基準

■美の判断基準ってあるのでしょうか
 音楽であれ、絵画、デザインであれ、よく他人の作品をケナす人がいらっしゃいますね。
 ケナす行為というのは、
1-余程自らの眼力に自信がある
2-余程自らの眼力に自信がない
3-相手を自分より下位と見なしたい
4-意識的に相手を傷つけてやろう
5-自分が傷ついた(ウマイと認めてしまった)
6-作家や作品が有名でない
7-だからケナシてもかまわない
8-ケナシても大丈夫なほどヘタだ
といった心理作用が考えられますが、実は「美の判断基準」が明解に証明できない概念だからでしょうね。もちろん、並はずれた感覚の持ち主はいます。その道の「評論家」として認知されている人たちもその部類に入るでしょう。その人たちが「良い」と言えば、好き嫌いをヌキにして、良いのだ、と納得しなければならない、または、納得するべきだとする風潮があります。しかし、私は、果たしてそれがそうなのかどうかは、いちど疑ってみる姿勢が必要だ、と思っています。
 例えば、明らかな基準(規範)として示されている法律の論争にしても、法律家の解釈の違い、また拡大解釈などが入り交じって、全く違う判断が行われたりします。人間が媒介する以上、芸術の分野などは、それと比較できないほど情緒的な世界なのですから、判断基準があいまいになるのも無理からぬところです。ご承知でしょうが、作家が死んでから評価が上がった、それも、間逆の結果で・・・、なんてことは、過去にも枚挙にいとまがありませんね。時代によって美人の基準が変わるように、また、時代背景による感動の「質」が変わるかも知れない人間の心のあやふやさを考えれば、現在数十億の価値とされているゴッホだって、いつひっくり返るかわかりません。
 いや、むしろ、こう考えられなくもない。
 それは、芸術を価格に換算する、またはそれに似た神経は(限られた供給に対しての需要の多さと言う結果もありますが)、
一種、特殊な能力、または異常に鋭い感覚を持つ一握りの人たちの間で「のみ」通用している現象なのではないか、ということです。なぜなら、一般的には(例えば美術館が絵を購入する場合などは別として)自分と対象の間にあるべき「感動」が「価格」によって左右されるとは考えられないからです。ですから、今存在する視点が全てのように思って、それを基準として物事を見てしまうことはよくありますが、一歩引いたところから見るという冷静な神経が必要に思えるのです
 とはいえ、俳聖といわれてきた芭蕉の俳句を「すべて駄作」と決めつけた正岡子規や、夏目漱石の小説を「退屈なこけおどし」と評した正宗白鳥のような勇気(これは勇気であって、全く正しいとも言えない)は、まず、普通人の感覚では持てるものではなく、私など、百人一首の中で一番好きだった凡河内躬恆の歌「こころあてに 折らばや折らん初霜の おきまどわせる 白菊の花」を、殊の外コテンパンにこき下ろした子規の評を読んでからというもの、やっぱり、どこかでこの歌がすっかり霞んでしまった、ということはあるんですが。
 ことほどさように、たとえば、批評を読んでから解ったような気になる、または、作家の言辞より評論家の解説の方を信じてしまう(解りやすいから)ってことは、誰しも経験されたことでしょう。
 こういうこともあります。
 ただの「珍奇」に過ぎない事象や芸術が、
 ・マスコミの露出度が高い、
 ・だから認知されている、
 ・流行だ、
 ・あの有名人が認めている、
などが自分の感受性を狂わせてしまう。そしてそれが、時をおかず消えてしまってから、実はあんなモノ、自分は認めていなかった、と心中で叫んで臍を噛みしめる、なんてこと。
 たしかに時代を超えて優れているといえる世界はあるでしょう。が、それすらも個人の鑑識眼に委ねられた結果だと思えば、その優秀な鑑識眼を持つといわれる人たちの自信のほどが知りたいものです。いかに有名な画家、例えばピカソにだって駄作はあるはずです。しかし、(芸術作品排泄物論は横に置いて)なぜそれを駄作と言えないか。一般人なら、あの「ピカソ」なんだから、ひょっとしたら自分が思う以上にもっと奥行きがあるのではないか、というような、あるいは視野の広がりからくるだろう「迷い」が出るものなのですが。
 ある詩が、「新しい世界を紡いだ言葉」といわれても、言葉やその結びつきに新しさは感じても、心底酔えなかったり、名曲を再現する指揮者やピアニストなどの解釈の違いや力量の違いより、演歌的な表現に感動を覚えてしまう感受性、そして鑑定書のない名品・・・このような芸術に向き合ったとき、声の大きい人に惑わされる凡人の感受性は、果たして貧困といえるでしょうか。
 美に接して迷う己の自信のなさを克服するには、結局「美の判断基準」に確固たる基準があるわけではない、という原点に立って、世間の評価をいちど疑ってみる、と言った姿勢が有効なのではないでしょうか。
 グラフィックデザインの世界で言えば、制作ツールがコンピュータの時代は、デザインの素人でもソレらしい顔を持たせることが簡単です。星の数ほどもある素材集、制作の苦労もせずに使えるフォントの数、スポットカラー・・・どれをとってみても、あとは器に盛るだけの完成素材です。ちょっと絵心のある図々しい人なら「私はデザイナーだ」と呼称するかも知れません。料理を器に盛る時点の深さと怖さも知らないで。
 こういう時代だからこそ本物を見抜く力が必要です。そのためには、巷間「良い」といわれているモノに接するときは、まず自分の判断力を疑い、傲慢な批評は避けて無心で体内に取り込む。その上で、積もっても消えない印象群の熟成を待つ。それが感受性を養う早道ではないかと思えてなりません。
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 ここからは、私の立場からすれば、具体的に言える「デザインの世界における美の基準」です。生活に密着するデザイン論ですが、敷衍して考えてもあまりピッタリこない、と感じられたら読み飛ばしてください。

■デザインにおける客観性
 デザイン。ことに「コマーシャルデザイン」の分野においては、前述のように作品の良否を決める基準はない、では困ります。なぜなら、「デザイン」は芸術作品ではないからです。「作家の言葉」ではなく、商品、すなわちクライアント側の言葉なのです。これは、不特定の人の好悪は関係ないではすまされません。いやしくもデザイナーを目指す、あるいはプロとして対価を頂いているデザイナーにとっては、「なにを今更」と思うでしょうね。ところが・・・そんなことは解っていると、案外観念的に自分を納得させているだけじゃないですか?
 実際の作業過程を振り返ってみれば気づくことがあります。
「ターゲットに向けての発信」などと自分に言い聞かせて制作している作品が、実は自分の意見が主体になっていること。デザインの本質ともいえる「客観性」の重要さより「自分の思考、自分の嗜好」の表現が勝っていることなど。
 また、こういう場面もありますね。
 依頼側(クライアント)のコンセプト、あるいはテーマに則している、と自分を納得させながらの制作途上で、「きれいなデザイン」とか、「うまいデザイン」を目指し、またそう言われたいため、横文字や難解な専門用語を並べて自作を説得しようとしている自分。

 こういう私的な例があります。
 昔、タバコのデザインを依頼されたとき、制作の最重要課題は、10円刻みの価格差をデザインでどう表現するか、でした。買う側からいうと、決まっている銘柄を買うつもりで自動販売機にコインを放り込んだ。アッ、持ち金が足りなかった、とりあえずは10円〜20円安いものを買って間に合わそう、と、瞬間的に判断してランプの点いているボタンを押している、ってことです。この時点では、美しいデザインとか気に入ったデザインが横にあっても、値段に合致していなければ「美的要素」なんてのはなんの選択力も持っていないわけです。
 これは極端な例かも知れませんが、この「美的要素」というところが曲者で、「美的」というのは、「美しい」という意味より、デザイン的な「完成度」を意味しています。言葉を代えて言えば、この「完成度」を高くできる(文章における推敲)手腕がないと10円の価格差は表現できない、ってことなんです。
 これに付随して、こんな話。
 故人ですが、デザイン界の大御所だった亀倉雄策氏が言ったことで、自分の完成作は1ヶ月ほど棚の上に放り投げておく、と。そして、あらためて取り出してみたときの自作が、他人の作品を見るように新鮮で、欠点が解る、と聞けば、客観性の大切さとともに、客観性を得るには1ヶ月が目安だ、と言われているような気がしたものです。 彼ほどのデザイナーでも、自分の客観視線を信用していない、というところが興味深い。もっとも、一般的にはそんな時間的余裕のある仕事はありませんけど。

 「良いデザインだ」といわれる評価基準は、現在自分が制作している造形の意味するところは何か、また、ある発信する中身を表現する造形とは、といった視覚要素が的確に表現されており、それをクライアントに明解な言葉で説明できるものでなくてはならないのです。あるいは作品の良否を客観的に評価できる基準に知悉していることです。もちろん数学的、あるいは物理的な答えのようなものはありません。この商品は売れた。だから良いデザインだ、と言うような、100%表出できない陽炎のような部分はありますけれど。

■デザインの評価基準を知る
 客観的に考え抜かれたデザインを完成するには、デザイン以前の諸問題がその良否を左右します。つまり、デザインする(視覚化する)ことは、それを具現化する末梢的な部分にすぎない、ということです。
 デザイナーは、テーマを分析する能力もさることながら、いわば視覚化のプロといえます。たとえばオリエンテーションの段階で、コンセプトを構築するためにさまざまな分析を話し合っている<ブレインストーミング>の間にも、話の中身に添った「視覚的要素」が頭の中を駆けめぐっているはずです。制作過程においてそれが的確に具現化できればよし、当初の漠然としたイメージが漠然としたまま消えてしまうのは、イメージが実を結ぶための栄養素が足りないといえます。栄養素の貧困というのは、自分が持っているデザイン評価基準のあいまいさに他なりません。この評価基準があいまいだと、エレメント一つ選ぶにも迷いが生じます。作品の良否も判断できず、堂々巡りを繰り返えすことになります。またそれは、クライアントを説得する言葉をも貧弱にするものです。
 「デザインする」行為が末梢的部分だからこそ、早く、確実に「良いデザインを完成させる技術」を知ることが大切です。評価基準が明解になると、クライアントとの話し合いにも迷いがなくなり、決定が早くなるわけです。


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