日本独自の伝統を見直す
欧米化した私たちの生活は、世界を狭くしてしまいましたね。それはそれで、たとえばアメリカに旅行した、パリに行った、外国の家庭でご馳走になった、としても、そのほとんど違わない生活観は、かつて言われた文化の違いに対する変な萎縮感を与えることがなくなった、という点ではおおいなる進歩と言えなくもありません。
しかし、よく言われるように、ひとたび日本をよく知らない外国人から、「日本って・・・?」と説明を求められたとき、果たしてどれくらい明解に私たちの国、あるいは人の特質を伝えられるでしょうか。
そう思って、あらためて身辺を見回してみれば、
食卓にある果物が盛られた手びねりの器。
窓から見える庭の柿。
松の枝の踊るようなたわみ。
山の稜線・・・
生活習慣
少しも欧米風ではないことに気付きます。ただ、生まれ育った国にある自分の目が、「ソレだよ」とそこに止まってくれないだけなのでしょうね。
「日本の伝統」と言ったって、歌舞伎だ能だ、茶道だ華道だ、と、ことさら日本的なものをあげつらう必要はありませんね。日々の自分の身辺は、ほとんど日本的な空気のなかに存在しているわけですから、「これが日本なのですよ」と説明できる要素(美意識)は明解に文章化できるはずですし、またそうしておきたいものです。ただし、美しい日本の言葉は失われ、立ち居振る舞いはぞんざいになり、漢字で書かれた商品名は下品になり・・・と、たしかに美しいといわれてきた日本の美質は消えつつありますが、それでも、からくも持ちこたえている「日本の特質」は多くあります。それが、消すに消せない出自という「血」なのでしょう。
その、世界の中の「日本民族の血」についてちょっと。
日本人の国民性といってもよい自然に対する感受性については、よく耳にする言葉がありますね。
「欧米人は自然と対決する」
「日本人は自然を取り込む」と。
日本人は、自然と対立するのではなく、自然を自分の側に取り入れよう、または共生しようとする姿勢をもっているといわれます。それは「借景」とか「盆栽」といった行動に表れていますね。インターネット情報の渦中にいる我々は、つい自分の立つ位置を忘れてしまいがちですが、これはそうした(自分にもしみ付いているはずの)日本の独自性です。
古来より培われ、今に引き継がれている日本人独特の感性は、「空間意識」と「色彩感」ではないでしょうか。この視点を、今一度考えたいと思います。
余談です。これは悪口ではありません。日本以外のアジアの美的感覚、例えば中国、韓国を観てみます。歴史的な民族交流を考えても、ほぼ同等の美的感覚を持ったとしても不思議ではありません。むしろ日本はそれらの国々を文化の先進国として学んだ時代もあったのです。にもかかわらず、個別的な事例を挙げているわけではありませんが、中にはどうしても受け入れがたい美感がありますね。例えば、日本人にとってのいちばん大きな異質感は、「装飾過多」と「色彩感覚」でしょう。妙に生々しい写実や、原色の組合せなど、それが今なお受け継がれているのはそれが国民性だからという以外考えられません。わが国の江戸時代なら「野暮」とされかねない感覚です。
そうした国々の影響を咀嚼しながら、わが国独自に鍛え上げられた美意識は「簡潔で清浄な美感」です。
桂離宮、伊勢神宮、家紋、そして諸々の所産に施された意匠は、それが最高のレベルで結実している例といえます。それはまた、時代を問わず、デザインに要求される必須要件でもあります。複雑雑多なデザインだってあるではないか、との反論もあるでしょう。しかし、それをしもよくよく観れば、わが国独自の「簡潔で清浄な美感」が通奏低音のように響いているはずです。その上での複雑とか混成であるからこその美しさであると納得できることでしょう。その証拠に、先のアジアの人々も、(他はともあれ)、そうした日本の美に追従しようとしていますよね。
その「美意識」を具体的な言葉に置き換えてみます。
1、余白の美
余白の美しさが端的に感じられるのは「書」です。
書道は日本固有のものではありません。しかし、日本固有の芸術に育つ発芽要素は古くからありました。
中国を起源とする漢字とその表現は、文字の「筆法」や「美醜」を学ぶもので、その他の要素(例えば空間)は念頭にありません。あくまでも中国式であり、中国本国人に褒められることを良しとしたものです。空海が中国人をして「五筆和尚(手足口5本の筆で同時に書く)」と尊敬せしめたように。
漢字を真名と言うのに対して仮名と名付けた書体の発明(ほぼ800年前後)は、日本の墨筆の世界をガラリと変えました。「仮」どころか、こちらの方が日本の「真」であると、私は思っています。「流麗」という言葉は、まさにこの書体を指します。画数の多い漢文字を行書体にしたとしても、あくまでも「読む」「伝える」という姿勢はくずれませんね。しかし、行書体から変身した仮名文字が女文字と呼ばれるように、ヤワヤワとした優しさがあふれる全く新しい書体の発明は、大げさに言えば当時の人々の生活を大きく変化させたのです。
覚えやすく書きやすく読みやすいゆえに、情報の理解層を飛躍的に増やしたことは、後々、日本人の識字率の高さ、聡明さに、他国の人々は驚かされることになります。
消息手紙や恋文も、和語を使って感情のままに表現できたことでしょう。それは、文字の世界に機能以外の要素が混じり始めたことを意味します。
源氏物語絵巻にある、文字列が重なり合う乱れ書き(源氏物語絵巻 詞書第三面)もそのひとつです。恋情の悩ましさをを、心(文意)そのままに表現し、しかも見た目にも美しく、読む者を、まるで文中の心象風景を観る如く物語りに引き込みます。
また、短歌、俳句などに見られる散らし文字は、その限られた言葉から受ける広々とした空間を、視覚的にも感じさせてくれます。とともに、歌意をより確かに伝えるために、文字そのものの美しさもさることながら、余白の部分(空間)と調和することが重要とされました。
こうした感性は、やがて、書道家とよばれる人が、文字を脱出して「墨抄」「墨象」という芸術に移行するのも故なしとしません。
2、余韻
簡潔で清浄な美感がストレートに表現される場合は、人の情感を決定づけ、迷いを断ちきってくれる爽快さがあります。
しかし、いっぽうで日本人が大切に思うのは、物事をドライに割り切りたくない感情です。気遣いの気分ともいえるでしょうか。サッパリと断ち切ってしまいたくない、揺蕩(たゆた)う気分の慎ましさ、それは叙情豊かな美感を生むことがあります。
ぼかし、淡し、崩し、そして上記の乱れなどの表現を伴うと、日本独自の奥ゆかしい余情美となります。
日本の文様や日本画などでは、霞(かすみ)、靄(もや)、霧(きり)などが、わが国特有の季節感を伴って描かれます。澄み切った空気感より、すべてが見通せない湿潤な空気に、もの思わせる美の余韻を感じるからでしょう。雲形もそのひとつで、多彩な風景を雲形で割り分ける手法は、わが国独特の画面構成です。
八つ橋(やつはし)という橋の定形があります。普通の橋なら一本で仕上げた方が機能的には良いと言えます。が、わざと橋をずらしてつなげます。これは、人は、従順な動作を規制されると、一瞬立ち止まり、なんらかの心のゆらぎを覚えるという、高度な人心操作術なのです。庭園の飛び石もまたしかりです。こうした行動の抑制感は、視覚においても同じです。日本家屋に住んだ方ならご覧になっていると思いますが、違い棚もそうした「視線の規制」に当たります。
松皮菱という文様があります。その折れ線による画面構成も、一直線の視線に対するちょっとした屈折が心を波立たせるわけです。
このように、ストレートに割り切らない情感は、わが国においては芸術だけに限らず、生活習慣や挨拶言葉にまで及んでいるのは、よく外国人に指摘されるところです。
3、なりゆき/自然
日本の独自性のひとつに「なりゆきにまかせる」という考えがあります。
これを応用したデザインは、さまざまな物品のデザインに見受けられます。波、流れ、たわみ、皺(しわ)、絞り、反り、といった、ごく自然でありながら特徴のある形が想像できるでしょう。これは、日本人の感性としては、もし作為をもって何らかの行為をしたとしても、かすれ、滲み、捻れ、折り形、破れなどによって誘われる、結果的になりゆきから生まれる線や面を良しとする、全くの作為による低俗感を嫌う気持ちを育てます。折り鶴、結び、枯山水の渦模様、水引・・・などが、わが国独自の形となるのは、この自然のなりゆきを推し進め、練り上げ、完成させた形となり、だれが、どのようにその形を用いても理解されるようになり、そして「定形」に育ったわけです。その定形のなかには、おおげさにいえば日本人の生活感そのものが凝縮されている、といってもよいと思うのです。
4、みたて・うがち
天体を見上げて、エジプト発祥といわれる星座の名前に添った星を見つけるのは難しいものです。一方わが国では、ある事象を視覚言語で表現しようとするとき、その実体に則した簡潔な形象を理想とします。ですから、簡単に人を納得させ、記憶させる力があるといえます。
「あるもの」の写実表現は、単純に言ってしまえば、それそのものにしか見えない点でイメージを固定化する、と言えるでしょう。しかし、単純化された「あるもの」の形は、無限の「みたて」と「うがち」へ誘導します。
幼児が積み木をあらゆるものにみたてながら遊ぶ感覚を思えば納得できますよね。それを高度に完成させたのが日本の「紋章」です。そこには自然界のあらゆる現象が無理なくパターン化され、「みたて」の基本デザインとして凝縮されているのです。紋章は、その固有名詞からみたてるのではなく、具象からみたてた形を単純化し、定型化したから、たいていの人々がそれを理解し、伝達し、広まったわけです。
古人は、その「紋どころ」からさまざまな情報を察し得たでしょう。現代人としては理解しづらい「みたて」も勿論あります。歴史的に消え去った「みたて」もあるでしょう。しかし、時を超えて生き続ける造形というものはあります。それは「紋」としてではなく、「みたて」という、人間の頭の柔らかさを刺激してくれる形であり、納得できる単純化とともに現代に生かせる造形です。
例えば、ポスターのデザインで、空間をふたつの面に分割しようとするとき、単純な直線や曲線で分割するより、日本刀や城の石垣の反りの曲線、または、松皮菱の折れ線で2つに分割すれば、外国人も「日本的」と認めざるをえない空間を演出できるのは、日本独自の定形でありながら普遍性をも兼ね備えているといってよいでしょう。
私たちが好む身辺の物品や事象をみても、この日本独自の感性が息づいていることがわかると思います。
現代に通用すると思われる抽象形による「みたて」を列記します。
「紋」としてではなく、「日本的基礎造形」として再認識します。そうすれば画面構成、デザイン装飾などに応用できます。 |