感性を磨く (top)
1 美の判断基準
2 造形の必然性
3 バリエーションを生む技術
4 日本のアイデンティティーの確立
5 伝統と新感覚
6 デザインに密着するキャッチフレーズ
7 日本デザイン史 


5 伝統と新感覚

 
新感覚(コンテンポラリー)
 新しい感覚という意味で「モダン」は、割合に長い年月にわたって流行った言葉です。
 今、「コンテンポラリー」という言葉も、「モダン」同様、音楽、絵画、デザイン、建築、果てはダンスまで、多岐にわたる分野で使われていますね。
 「モダン」とか「モダニズム」を、近代主義だ、構造主義だ、ポストモダンだと、哲学的というか、教条的な正確さでしかとらえない一派がいます。でも、大多数の人々は、ごく単純に「新しい」という意味にとらえて流行ったんだと思いますよ。
 ところで「流行る」ということなんですが、これは、流行っている現象の範疇である、といえる同一性がなければ認めてもらえない、という、ある種狭量な一面を持ってしまいますよね。ですから、その感覚の同一性が、今ではむしろ「懐かしいあの時期」の、といった感じがする分、古くさい言葉になってしまった、とも言えますね。
 そうすると、「今、新しい」・・・と言うにはどうすればいいのか。
 伝統とかアカデミズムを気にせず、思うがままに表現しつつ人を惹きつける感覚。たとえば、なにものにもとらわれないような自由な雰囲気(ある種ガキの絵のような)をもつ視覚物。古いようで新しい。見たようでいて何かが違う。全く突拍子もない(そこにあるのが似つかわしくない)感覚。そして、今までのように、一つの解釈、あるいは分かったフリができるモノではない視覚物、現象、解釈を生みだした、あるいは自負した、というとき、日本語で「現代の」「当世風の」などと言うより、「コンテンポラリー」と言った方がピッタリする、というか、その言葉自体に新奇さと解釈の幅広さを期待したのでしょうか。

 「コンテンポラリー○○○」と冠して発表されるものは、果たして「コンテンポラリー」に値するか、と言われれば、「コンテンポラリー」の意味においては値するに決まっていますよね。ただそこに逃げ込んで澄ましていれば、どうにか他人が解釈を広げてくれる、あるいは「コンテンポラリー」だと言えば、その音の響きに惑わされる人がいることを期待しての上ではないかと思えるものが多すぎるような気がしているのです。
 そこで思い出したのが、ある本で指摘されていたことです。一例として「脚下照顧」の四文字です。まあ、中国では、どう発音するのかわかりませんが「足下に気を付けてね」。英語では「Watch your step」という日常会話にすぎません。この四文字を、深遠な哲学用語にしてしまう日本人の感覚、あるいは、日本にはそう感じてしまう人々が多い、という指摘。
 禅の僧侶?似非哲学者?知ったかぶり?古代中国崇拝者?私にはわかりませんが。
 そうした流れの中に紛れ込んでいるもののなかには、とんでもないモノも含まれます。そのひとつに、動物が描いた絵があります。チンパンジーの描いた絵とか、象が描いた芸術です。・・・って、あれは一体何なのでしょう。
 ある時、なんの先入観もなく、いきなりそんな絵を見せられたとします。そして一瞬ゾクッと反応したあと、「これはチンパンジーが描いた絵です」と言われたとき、何と言いつくろえば良いのでしょう。たしかに、結構立派な絵に見えなくもないものがあったりして。
 これが、アヤフヤな人間の感性をあざ笑うためのレトリックなら、マア自分の不明を恥じながら許せもしますが、まともにチンパンジーの描いた絵も芸術足りうる、と考える人がいることも事実です。そのこね上げられた屁理屈を見ると、ちょうど、テレビの世界の全く馬鹿げた番組のオンパレード。業界人でなければ人にあらず、といった空気が、一億総芸能人化を助長したり、わざとドラマを幼稚化して、それは視聴者が望んでいるからだ、と、正当化しようとしている井の中の蛙。それがかえって芸能界公衆便所的な狭小性を物語っているのに気が付いていない。そうしたおバカ番組の、いかにもご大層にひけらかす大義名分にそっくりです。
 狭量な、思想とも言えない浅い論理で視聴者をあざむく。それは、その世界で生きているタレントのないタレントたちに及び、テレビ露出度の高さと人間の品性の低さが正比例していくように、われわれをジワジワと白痴化していく現象のように思われてなりません。
 怒っているわけではありません。ただ、世の中は濁っていてこそのものだ、とでも考えなければ精神のバランスは保てないなあ、と。

 こうした現在の諸々の現象を「現代のゴミ」と定義して敷衍してみると、マスコミが発達した今ほど、あらゆる分野に玉石混淆が淀んで停滞している時代はないといわざるを得ません(もっとも、ひとつの型にはめ込まれた価値観で整理されるよりは余程良いのかもしれませんが)。

ダダイスムとのちがい
 「ダダイスム」は、その時代(第一次世界大戦時)のコンテンポラリーです。
 「何でも芸術になりうる」とした、既成の権威・道徳・習俗・芸術形式の一切の否定、そして自発性と偶然性の肯定だ、とするコメント性は、現在のコンテンポラリーアートとそっくりですね。
 しかしダダイスムは、今から振り返ってみると、その言い様は同じでも、「ダダイスム」はイスムとしてのアイデンティティがあったと思うんです。なぜなら、そこには立ちはだかる「偉大な権威性」が存在し
からです。ですから、その上に成り立つ「抵抗の芸術」と考えられなくもない。言葉を代えれば、「偉大な権威性」の存在とか、「民衆の理解度」が高い時代だったから、ダダはゴミではなかったと言えますね。

 現在は、その「偉大な権威」が見事なまでに希釈されているのが問題なのです。つまり、有視界の巨大な浅瀬が小さなさざ波を立てている状況だ、と考えれば分かりやすい。
 偉そうに理屈を披瀝する人、自らを権威づけるためのウソを創作するその道の泰斗と呼ばれる人、見抜かれている欺瞞に目をつむる権威の象徴を自負するマスメディア、政治家の軽々しい言葉、予想の当たらない経済学者の分析、底の見えすいた抽象画、自称詩人の貧弱な言葉の羅列・・・これらは、(いつの時代もあったでしょうが)それを信じる人々が多数派を形成するのにもっとも大きな影響力を持ち、いわゆる愚民化をすすめるマスコミが垂れ流す「媚毒」が最大限顕在化しているのが現代です。ですから、現今の上のような現象は、底が見えているだけに「ゴミだ」とはっきり言えるのです。そしてそれは、存在する以上仕方がないのだ、と、消極的であれ認めなければ、市場にデビューできないし、陰でほくそ笑むこともできないのです。

 でも私は、現在私たちが接するあらゆる現象は、いったんは「ゴミの山」だと考えるようにしているんです。その無数のゴミの中にも、多分、磨けば光るダイヤモンドがあるだろうし、健全な回帰も起こるだろう、と、考えているほうが楽しい人生になるだろうと思っています。

バリエーション余談
 一小節のテーマが、交響曲を生むか、10小節で事切れるか、それはテーマが内包するスケール次第です。何事においてもそうでしょうが、たとえ広さがあっても底の浅い入れ物に入っているモノは、およそその内容は知れてしまいます。「底の知れないスケールがある」というのは、いわゆる表面積ではないようです。「果てしない広さ」はもちろんスケールを表してはいますが、畏怖に似たスケール、という点では、底が見えない深さには及ばないようです。つまり、表面積的広がりというのは、八方美人的なモノの羅列にすぎないような気がします。一方、底が見えない、というのは、一種の恐怖感を覚えます。本物のスケールというのは、その「深さ」が、どこまでも掘り下げられ、汲めども尽きぬ、という表現となるように、一種の無限性を持っているといって良いでしょう。
 その点で伝統の素材をテーマにすると、何曲もの、あるいは壮大な曲を生めると言って良いでしょう。なぜなら「伝統」は、その無限的な発展の歴史性が証明しているからです。 日本のデザイナーが日本をデザインする場合、「日本の伝統文様」をデザインベースにするのは必然でしょう。しかし、立ち位置を変えてみることも、発展させるという意味では重要です。
 立ち位置を変える、それは視点を変えることと同意義です。
 例えば、アメリカのヒラリー国務長官が来日の折、飛行機のタラップを降りるとき、翻った黒いコートの裏地が和服地だったのを覚えてますか。鮮やかな色彩とデザインの対比。デテールは見えなくても、和柄に新鮮な驚きを感じます。同様に、非常に大きな意味合いのある好例は、アロハシャツです。移民の人たちによる、現地の風土にふさわしい衣服を生むための窮余の一策。それが結果的であれ「和服の洋服化」という、新鮮で独自なデザイン感覚となって、ハワイのアイデンティティーとなりました。
 こうした発想からみて、日本の伝統文様だけが日本を表現するわけではありません。アフリカの伝統模様を日本的模様にアレンジしたらどうなるか、といった視点を忘れてはならない、ということです。日本人がデザインすれば、日本的になる、というのではなく、日本的な要素を知り尽くす努力の末に生まれる「新鮮な日本情緒」を生むには・・・といった視点が必要だ、ということです。
 

  
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チンパンジーが描いた絵。
なんと、200万以上の価格で落札されたとか。「モンキービジネス」とは英語では「インチキ商売」のことですが・・・
人間以外の動物の描いた絵に著作権はありません。念のため。

コンテンポラリーなイラスト。
ベジェ曲線で描いたと思われますが、ちょっと卑猥感があるところが有機的です。

意味ワカラン

Contemporary Architecture
ドイツ・デュッセルドルフの建築装飾

感性を磨く (top)
1 美の判断基準
2 造形の必然性
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